創神計画 - Report 1

 その記事を見かけたのは偶然だった。
 いつものように事務室に顔を出し、余裕のある時間を新しいフィジカル・レビュー・レターズなどを読んで時間を潰す。顔なじみになった事務処理のパートの女性に、あ、間違えないように、この人は50過ぎのパートの人だ、コーヒーを出して頂くと、論文の山や雑誌がそびえる書棚を前にページをめくっていた。

 だから、それを見つけたのは、偶然などではなく必然だったのかもしれない。


 論文の束を読むときは最初にざっと目次を読み込み辞書を片手にタイトルを注意深く読む。まぁ、物理学の論文は単純な言葉で記述されていることが多いので辞書を爪弾くことはほとんどない。ただ、時折、変に宗教がかった表現やレトリックを使い回すことを教養だと誤解している輩が凝ったタイトルを付けていることがある。変な造語やラテン語ギリシャ語を埋め込むのは勝手だが、英英辞典が必要になる事態は結構辛い。まぁ、そんな愚痴はいい。
 そのタイトルを見たとき、ああ、またか、と正直思った。
 結構多いのだ。物理学というか、学問肌で何かというと宗教関係の文章を寄稿する人物は。また、選考する側もそれを美徳と考えていることが多く、結構の目にすることも多い。
 『祈りと現象』。そんなタイトルが付いていれば、何か聖書に出てきた現象はこういう事で表現される、という解釈論か自然現象に結びつけた反宗教論かと考える。
 正直に言おう。私も何らかの宗教的な存在を信じている。
 だが、それは心の中で秘めておけばよいことだ。救いを求める人々に、それを与えるのは宗教家の仕事だ。我々は現実に誠実であればいい。そう思っている。
 そんないささか辟易した気持ちになりながら、私はそれでもそのタイトルをめくった。ちょうど、最近、移送情報の伝搬の実験データの解釈に疲れ、何か面白い知的興奮の対象に飢えていたのだ。えーっと、まぁ、そういうことにしておいてくれ。
 だが、そんな気分は最初のページを読んだだけで吹き飛んだ。
 そこには、厳密な観測装置の配置、行われるべき現象の再現手順。そして、一般の被験者を利用した、現象の再現性とその観測結果が記述されていたからだ。
 理解する。
   身体が震えた。
 これは単純な宗教論ではない。
   心が揺れる。
 技術としての祈りと、奇跡を生産するテクニックの論文だった。
   興奮に体が熱くなった。
 奇跡を科学が模倣する。いや、これは模倣じゃない。奇跡を技術が実現する、そのプロセスだった。
 興奮に身体を震わせながら、早速、もう一冊自分の研究用に該当の論文集を請求すると、私は本のコピーを取った。
 これは大きな出来事になる。そんな確信があった。
 祈りが生み出す奇跡という現象、その名は変質させるモノの意を取って『アルター』と名付けられていた。